もつれの反照
残暑を追いやる乾いた風が、大学生協のロゴ入りの紙袋を撫でていった。立花仙蔵は重くなった袋を足元に置き、購買部の入り口の前で立ち尽くす。
全く、常に完璧であろうとする自分らしくない。教科書に、自前で用意しなければならない実験道具、細々した備品。分けて買えばよかったものを、一度に抱え込んでしまった。
文次郎に笑われるな、と腕を組んだまま袋を睨む。なぜこんな真似をしたのか、自分でもわからない。行き交う学生たちは仙蔵を避けるように、三々五々、自転車を引き出して帰っていく。
ふと、その向こうに見慣れたバイクの姿が目に入った。黒く無骨な車体――文次郎のバイクだ。仙蔵は口の端が上がるのを抑えきれない。
学部もキャンパスも違うのに、ヘルメット越しに覗く横顔は、いつも偶然めいたタイミングで現れる。その気遣いは、真面目で、偉そうぶらずに黙って行動に移す彼らしい。けれど、もう少し堂々と迎えに来てくれてもいいのにと思っていた。声をかけようとしたその時、文次郎が片手で後部座席を示した。
「仙蔵!」
彼の伸びやかな声が熱っぽい秋空に響く。
仙蔵は小さくうなずいて紙袋を持ち上げ、彼の元へと駆け寄った。出会ってから八年、慣れたやり取りだが、彼の甲斐甲斐しい世話には毎度気恥ずかしさがつきまとってしまう。
「理系ってやっぱ荷物多いんだな」
「今学期から実験が本格始動でな。先輩から引き継いだ卒論のテーマだけど」
「三年生なのに?」
「まあ、研究室に早期所属するくらい、優秀ってことさ」
仙蔵の口ぶりには、半分だけ冗談が混じる。文次郎はシートの下からもう一つヘルメットを取り出した。
「そういう文次郎も忙しそうじゃないか」
「今日はもう終わりだよ。けど、会計ゼミの課題が思いの外多くてさぁ。就活もあるのに」
文次郎は貸せという仕草をする。仙蔵はヘルメットを受け取る代わりに、紙袋を預けた。
「何十社も受けるのか?」
「そんな非効率なことしねぇよ。バイト先、インターン先から絞るつもり」
文次郎はそう言いながら荷物をシート下に入れて閉じる。そしてバイクに跨ると、トントンと座席を叩いた。仙蔵は促されるままヘルメットをかぶり、文次郎の後ろに乗り込む。
エンジンの振動がじわりと足元から伝わり始めて、バイクは校舎を抜ける道へとゆるやかに滑り込んだ。講義を終えた者、サークル活動へ向かう者、それぞれがキャンパスを行き交うが、誰も二人に目を留めはしない。
並木道を抜ける風は日に日に冷たさを増していた。それでも、日差しのなかにはわずかな熱が残っていて、新学期の学生たちをどこか浮き立たせている。大学生活、これといった心配事はない。けれども文次郎の背を感じていると、心のどこかが知らず知らずに緩むのだ。
大通りに出ると、景色が一気にひらける。流れる車列、子どもを乗せた自転車、道沿いに立つ看板が、秋の日差しを受け止めていた。からりとした風が頬を打つ。陽に照らされればまだ汗ばむほどの気温なのに、バイクで風を切ると空気はひやりと冷たい。季節が確かに進んでいるのを感じながら、仙蔵は文次郎の背中越しに道の喧騒を眺めた。信号が赤に変わったところで、文次郎が振り返りながら短く口を開く。
「しっかり掴まっとけよ」
その言葉に、仙蔵はわかったとだけ答えて、文次郎の腰に腕を回した。安全のためとわかってはいても、いつも彼のほうから言われるまでは遠慮してしまう。肩甲骨が少し浮いた背中に身を預けると、緩んだ心が文次郎の方に溶け出していく。再びバイクが走り出すと、風景の流れる速度が増し、空気が切り裂かれる音の中で、文次郎の背中だけがくっきりと存在感を放っていた。宵にはまだ早いが、夕暮れの色が空を染めていた。
——視界の端に、夕陽に照らされた木々が揺らめき、排気に混じって土の匂いが滑り込む。ここは街中の大通りのはずなのに。仙蔵が思わず瞬きをしても、山道に立ち尽くしているように景色が止まっていた。秋風の冷えが、山気のぬるい湿度へと反転する。なんだこれは。白昼夢か?
目を閉じたり開いたりしても、山中の景色は変わらない。
ふと黒い塊が目に入り、顔をやると、幼い子どもが一人で山道にうずくまっていた。どうにも動けないらしく、小さな背が浅く息を繰り返していた。彼の胸の震えがこちらの肺にまで伝わってくるようで、仙蔵は文次郎の背に体を近づける。すると、もう一人の少年が近づいてきて、黙ったまま彼を背負った。どちらも見知らぬはずなのに、不思議と懐かしさのようなものが胸をかすめる。その少年の背中に感じる体温だけが、こちらまで届いてくるようだった。
再び瞬きをすると、光景が糸がほどけるように消えていく。その最中、文次郎の背中が、あの少年の姿と重なって見えた。どちらが本物なのか、あるいはどちらも本物なのか――判断する術はない。タイヤが路面の継ぎ目を叩き、幻が砕けた。現実の光景ではない。しかし、山道の朱が壁面に映る夕焼けへと溶けていっても、あの背中の熱だけが胸元に残っている。幻を駆け抜けた感覚に夢現になりながらも、エンジンの低い唸りがバイクに乗っていることを知らせていた。
「寝るなよ!」
文次郎の声が風を裂いて響く。彼は小さく肩を揺らして仙蔵の体重を受け直した。
「寝てないよ!」
現実の文次郎はここにいる。仙蔵は少しだけ腕に力をこめ、彼の腰をしっかりと抱き直した。秋風が頬をさらう音と、文次郎の背中から伝わる体温。それはどこか懐かしく、今まさにここにしかない感触でもあった。
「そういや二輪の免許取ったんだよ」
文次郎が不意に口を開いた。春、新学期。人の溢れかえる学食は、皿とトレイがぶつかる音が混ざり合って騒々しい。時折、群れて座っている新入生の浮かれた歓声がどっと場を賑やかにした。遠くで誰かのスマホの着信音が跳ね、蛍光灯の灯りが全てを照らす。
仙蔵は驚いたようにして眉を引き上げて、緑茶を啜る手を止めた。何か心変わりでもあったのだろうか。
「いつの間に? 文次、お前、バイク趣味だったか」
湯呑みを軽く握りしめながら仙蔵が問い直す。
「別に趣味じゃない。けど今まで原付使ってただろ、通うのに」
「うん」
相槌を打ちながら続けてくれ、と仙蔵が目で合図をする。
「ゼミの先輩がいらなくなったバイク譲ってくれたんだ。ちょうど原付だとスペック不足だなって思ってて」
二人が座る窓際の席には午後の光が差し込み、緩やかな時間が流れていた。三年生にもなればこの喧騒など慣れっこになっていて、どこ吹く風といった面持ちのまま、文次郎がラーメンの汁をひとすくいして啜る。それはすっかりぬるくなっていた。
「ちょうど春休み前だったし、せっかくなら免許取るかって」
ラッキーだね、と仙蔵がにっと笑いながら頷くと、ラッキーだなと文次郎が微笑み返した。
「どれくらいで取れるんだ、免許って」
「原付の免許持ってるからすぐだったぞ。大体二週間くらい」
「楽勝なもんだな」
「実際楽勝。荷物スペースも増えたから便利だぞ、買い物とか」
レンゲを楽しげに動かしながら文次郎が言った。中古だけれど十分だと付け加えると、仙蔵が何かを思いついたような顔をした。
「先輩からもらったそのバイク、ニケツできんのか?」
「できる」
「最高じゃないか」
机に肘をついて仙蔵が身を乗り出す。
「私のことも乗せてくれよ」
その言葉を放った瞬間、学食の喧騒が二人だけの静寂に変わる。文次郎の瞬きが止まった。
──風に吹かれても、背中に何かが足りないといつも感じていた。朱い光が地面を照らす。湿った土と降り出しそうな雨の匂いが交わって、霞とともに揺れていた。日の当たるところ、朱色の中にポツリと黒々と影が沈んでいる。小さな影が膝を抱え、震えながらうずくまっていた。
助けなくては、手を伸ばした瞬間、木の葉のさざめきが声を奪った。呼吸が一度止まる。指が空を掴む。
別の黒影が側から現れ、小さな体躯を抱え上げた。黒い袖の残像が、真っ赤な西日に照らされて残像を作る。その影は父のように自分に微笑む。そして口を開いたが、言葉にならない曖昧な音だけが胸に響き、穴を開けた。
空洞だ。自分の声がどこまでも落ちていく。抱えられ、背負われたあの小さな影は自分にとっての宝物であったはずなのに。他の誰かが宝物を背負い去っていく。二つの影はもう既に手の届かないところにあった。解けた糸はもう結ばれることはない。穴が大きく深くなっていく。反響が激しく強くなっていく。あと少し早く気づいていれば何かが変わっていた。あと少し早く気づいていれば、あの小さな影のそばにいてやれた。
空洞いっぱいに鼓動が響く。目の前には朱色の地面がいっぱいに広がっている。時間は常に不可逆だ。宝物は戻らない。穴も埋まらない。向かい風が吹きつけて空洞へ飲み込まれていく。背中が足りない、寂しい。風が吹けば吹くほど、背中の不在が大きくなっていく──
「……当たり前だろ、そのために取ったんだから」
どうしてそのため、とまで言えるのか。文次郎はそれ以上言わなかったが、仙蔵はその訳を知っている気がした。なにせ中学生の時からずっと一緒だったのだ。ふざけて自転車の二人乗りをしたことだってある。あの文次郎の背をまた感じられるのが嬉しかったが、それを誤魔化すようにして仙蔵が片頬を上げてにたりと笑う。
「私のこと好きすぎるだろ、文次」
「うるせー」
文次郎は照れながら不貞腐れたようにして、椅子にだらりと背を預けた。置いたレンゲがトレイにぶつかってからりと鳴る。
「ヘルメット、もう二つあるんだろ、どうせ」
「なんでわかるんだ」
「私を乗せるために、バイクもらって免許までとったんだろ?」
「わざわざ全部言うな、恥ずかしい」
そう怒るなよ、私は楽しみにしてるよ。と仙蔵が手を伸ばして投げられたレンゲを整えると、文次郎は照れくさそうに笑いながら体を起こした。その様子を見て、やっぱり私を乗せたいんじゃないかと、仙蔵は内心浮き足立つ。木漏れ日が窓に映ってゆらゆらと輝いて、春の涼やかな風が髪を揺らした気がした。
エンジン音が静かに消え、駐輪場の庇に滑り込むと、仙蔵は文次郎の腰に回した腕をそっと離す。文次郎の背中の余韻を引きずりながら舗装の冷たさを足裏で確かめると、地面の凹凸が靴底に微かに伝わる。文次郎は無言でシートを開け、紙袋を一つずつ取り出して仙蔵に差し出した。
「文次郎、このあと暇?」
紙袋の重みが腕にずしりとのしかかる。最後の一つは文次郎が手にしたままだった。
「うん、今日はバイト休み」
「あがってってくれ、ついでに飯も一緒に食おう」
「じゃ、お言葉に甘えて」
文次郎は柔らかく笑って紙袋を仙蔵に預けると、無言のまま鍵を捻り、来客用の枠へバイクを停め直す。手早くスタンドを立てる仕草を、仙蔵は目で追っていた。生協の紙袋に囲まれている仙蔵の姿が面白かったのか、文次郎は苦笑いをしながら自分の元へ戻ってくる。エントランスを抜けて、エレベーターが二人を受け入れた。
室内灯の青白い光が二人をすり抜ける。仙蔵は壁の鏡に映る自分をちらりと見てから、文次郎の横顔へ視線を移した。
「本当に助かった」
そう言って横顔をよく覗き見ると、文次郎の隈がより一層濃く見えた。
「新学期なのに寝不足?」
「そんなに隈ひどいか?」
「食後のコーヒーはデカフェにしてやろう」
「そりゃどうも」
無音で開く扉から、廊下の煌々とした光が覗いた。
仙蔵の手がスイッチを探る。ぱちりという音と同時に、部屋の輪郭が一瞬で浮かんだ。靴を脱ぐために屈んだまま文次郎が小声で「お邪魔します」とつぶやくと、仙蔵はどうぞと小さく返した。
「荷物は適当に置いておいてくれ」
仙蔵がそう言って袋と鞄を並べると、文次郎もそっとその隣へ荷物を重ねる。
「洗面所借りるぞ」
「お先どうぞ」
仙蔵は台所に立って手を洗い、冷蔵庫から夕食の材料を取り出した。クッキングヒーターの電源をつけて合い挽肉とにんにく、一味唐辛子をたっぷりとフライパンに投げ込んでしばらくすると、パチパチと音を立てる。栄養さえ取れればいいとでも言いたげな食事ばかりの文次郎に、仙蔵は温かい料理を食べてもらいたかった。だからこうして、飯を食わせるために家に上げるのだった。豆腐と赤味噌、醤油を入れて炒め煮にすれば麻婆豆腐の完成だ。部屋の方を見やると、文次郎は座卓の上を片付けていた。
「文次郎、あのさ」
仙蔵が呼びかける。
「ずっと気になっていたことがあって」
声が届くように換気扇とクッキングヒーターの電源を切って、仙蔵が続けた。文次郎が彼の隣に立つと、吊り戸棚から箸を二膳取り出した。
「もっと堂々と迎えに来てくれていいんだ」
自分を乗せるためだと宣言した割には、まるで悪いことをしているかのようにバイクで現れるのが不思議でならなかった。他人ではない、背負い背負われた白昼夢を見た今日、せっかくなら聞くしかないと考えた。何か事情があるのか、文次郎がぴたりと固まり、次の言葉を探すように唇を動かした。
「いや、だって……」
「私のために二輪免許とってくれたんだろ?」
仙蔵が文次郎の顔を覗き込むと、彼はすぐに目を逸らす。やはりおかしい。仙蔵は不満げに目を細めた。
「は、恥ずかしいんだよ」
「私たちの仲だろう?」
「そうなんだけどさ」
文次郎は言い淀んで、箸を手の中で転がした。ううん、と口の中で悩むように唸り、瞼を固く閉ざす。
「……俺だけカッコつけて浮かれてるみたいで、なんか釣り合わないっていうかさ」
文次郎は箸を握りしめて眉を顰める。声は平静を装っていたが、その奥でなにかが震えていた。本心をうまく誤魔化したな、と仙蔵は思った。言葉にならないのか、今はまだ言えない事柄があるのかわからない。けれど、まるで背中の重みを確かめるように肩を揺らす癖があるのを知っている。きっと、何か関係があるのだろう。仙蔵はふふと笑いながら彼の肩口を掴み、支えるようにして揺さぶった。
「存分に浮かれてくれよ、私はお前に乗せてもらうの気に入ってるんだから」
まるで白昼夢から覚めたように文次郎が顔をあげた。瞳は輝き、肩は安堵している。
「わかった」
文次郎は小さく息を飲み、箸を握り直して微笑んだ。
「次からはちゃんと迎えに行く。何回だって乗せてやるよ」
文次郎はそういう男だ。大切な時には必ず揺らぎのない視線と言葉を投げかける。けれど、その眼差しは想像以上に真っ直ぐで、仙蔵は受け止めきれずに目を落とす。ここじゃなんだから、と裏返った声で部屋へと足を向けると、文次郎がついてくる。太陽に照らされたように背中が熱い。
ワンルームの部屋は男二人では手狭そのものだった。仙蔵の手作り麻婆豆腐とパックごはんを並べたテーブルに、器と箸が軽やかに触れる音が重なる。座椅子とベッドにそれぞれ腰を降ろし、画面の向こうのバラエティ番組をなんとなく眺めていた。
テレビの喧騒に混じって外から微かな水音が混じった。まさかと思いカーテンを開けると、暗闇の向こう、ベランダの手すりに当たって跳ねる雨粒が、街灯のわずかな光を受けて白く光っている。文次郎が窓の鍵を外し、そっとガラスを開け放ってベランダから身を乗り出した。ひんやりと湿った風が室内に流れ込み、雨の匂いと冷たさが頬を撫でる。文次郎はそのまま外気に手をかざし、頭をガックリと落として肩をすくめた。
「最悪、結構降ってる」
「雨弱くなったら帰る? それとも今日このまま泊まっていくか?」
文次郎の背中越しに仙蔵も手をかざす。湿った空気が頬を撫ぜた。
「いいのか?」
「いいに決まってるだろ。私、明日一限からあるから早いが」
「俺も一限がある」
仙蔵は息を吐くようにして笑い、経済学部なのに? 全力で大学生しすぎなんだよお前は、とからかうようにして言った。文次郎は軽く仙蔵を小突いて、窓を閉める。
「じゃあ、先にシャワー借りるぞ」
「わかった。ベッド使うか?」
「使うわけないだろ、床で十分だ」
文次郎が洗面所へ向かうと、テレビの喧騒だけが残された。仙蔵はドアの隙間から漏れるシャワーの音に耳を澄ませながら、食器をシンクに戻し、寝巻きを座椅子の上に置く。浴室のタイルを水が叩くたび、記憶の深みから高校二年生の秋の光景が呼び覚まされる。教室の窓際で進路希望書を差し出し合ったあの日も、確かに雨だった。夕方の山道の幻影に続き、今日はひどく意識が揺さぶられる。仙蔵はそっと目頭を押さえた。
やがて浴室のドアが開き、シャンプーの香りをまとって、タオルを肩にかけた文次郎が現れた。次どうぞ、どうも、とたわいもないやりとりをする。自宅のような、くつろいだ文次郎の笑みに仙蔵は楽しくなって、タオルと寝巻きと共に浴室へ入っていった。
浴室はまだ文次郎の熱気を残していて、間接照明のオレンジ色が空間を淡く染める。晴れて同じ大学に進学した二人は、それでも共に居続けた。青春時代を全て捧げるかのように日々を駆け抜ける。初めての宅飲み、初めてのオール、初めての二人旅行。ここにはなんでもできる自由があった。しかし、眩しい日々の終焉の足音が近づいているのを、仙蔵は知っていた。これから私たちはどこへ行くのか。進まない考えがただ排水溝に流れていく。
ドライヤーの轟音が部屋を満たす中、仙蔵はふと先ほどの視線を思い出していた。文次郎の瞳が放つ温度──それは進路希望書の日の約束と同じくらい強烈な熱だった。暖かい風が髪から首筋へと伝わるたび、胸の奥がじわじわと温められていく。ドライヤーを止めても、身体にまとわりついたその残響は消えず、仙蔵の心臓はまだ高鳴り続けていた。
文次郎は座椅子を倒した簡易ベッドの上で胡座をかき、タブレットの青白い光を見つめていた。眉間に寄せられた皺から、ただの娯楽ではない何かを探っているのが伝わる。
「なにしてんの?」
仙蔵が肩越しに覗き込むと、文次郎はほんの少しだけ顔を上げ、「企業研究」とだけ呟いた。その一言の重みに、仙蔵は思わず口もとを歪める。文次郎の澄ました様子に少し苛立って、仙蔵は彼のふくらはぎを軽く小突いた。文次郎はなんだ、と言って仙蔵の足先を掴もうとしたがはらりと交わす。ふふんと仙蔵が満足げに鼻を鳴らした後、二人の間に小さな空白が流れて視線が絡んだ。ほんの一瞬、時間が止まったように感じる。天井灯に浮かぶ文次郎の横顔は、どこか切なく淡い影に包まれていた。仙蔵がちらりとスマホを見るとすっかり夜更けの時刻だった。窓の外からは救急車の音が薄く響いている。
「そろそろ寝るか」
仙蔵が電気を消すと、家具が再び暗がりに溶け込んだ。寝巻きの裾が擦れる音がする。文次郎は毛布を引き寄せて眠り支度を整えたらしかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
しんとした室内に、窓を打ち付ける雨粒の重いリズムだけが深く響く。だが、そのリズムはもはや迷いではない。カーテンの隙間から薄闇が真っ暗な部屋に差し込んで、文次郎の丸まった背中を照らしていた。何度だって乗せてやる、という約束の余韻が、静寂の中で仙蔵の胸をそっと揺らし続ける。どこへ行く選択があっても、必ずお前の背中に帰ってきたい。その願いが永遠であることを祈って、瞼を閉じても消えない鼓動に、彼はいつまでも耳を澄ませていた。
***
季節が進んで上着が必要になりつつある頃。すっきりと晴れ渡った空のもと、文次郎はキャンパスの正門で人を待っていた。騒々しいのは客寄せの声のせいだけじゃない。遠くから聞こえるポップミュージック、構内に吸い込まれる人々の雑踏、全てが非日常だった。秋の学祭もついに三年目。適当に屋台で飯と酒でも買って、雰囲気を楽しもうと仙蔵と約束していたのだった。悠々と向こうから仙蔵が歩いてくる。きっと「待たせた?」とだけ言うに決まっている。
「待ったか?」
想像通りだった。仙蔵は耳からワイヤレスイヤホンを外し、ケースにしまう。
「全然。でもあと五分遅れたら、なんか奢ってもらおうと思ってた」
「すまんかった。にしてもすごい人だな」
「毎年言ってるぞそれ」
「いいじゃない、事実なんだから」
どちらともなく歩き出し、記念撮影をしている人を横目に、キャンパスの雑踏に足を踏み入れる。
「とりあえずアルコールパスもらってビールだろ」
「文次郎、お前どうせ、どて煮とか言わんだろうな」
「おっさん扱いすんな、俺まだ二十一だぞ」
他愛もない言葉を交わし合いながら、パス代わりのリストバンドをもらいに、総合案内所の列に並ぶ。待っている間、ふと仙蔵がトートバッグの中を覗き込んだ。
「実はさ、花火持ってきたんだ」
仙蔵は真面目な男だ。つまり遊びの時は真面目に楽しむ、という奴で、あれこれ真新しいことをやりたがる。文次郎はそれが嬉しかった。自分の思い付かない楽しみをもたらすのだ。
「いいけど、なんでまた」
そう言った瞬間、仙蔵の表情が一瞬固まり、ゆっくりと目を伏せる。何かの核心に触れてしまったような間で、喧騒が遠のき、二人の間に別の時間が流れた。
──目の前の岩壁は、まるで自分を寄せないかのように反り立っている。手をかけ、足をかけ、体を持ち上げる。その繰り返しが途方もないように思えて、一つずつ指が岩を掴むたびに、世界は自分と壁だけになっていく。負けない、折れない、もはやこれまでを超えて登っていく。風の切れる音すら、自分を試しているようだった。ようやく頭の上の地面を掴んで腕ごと体を持ち上げようとした瞬間、力が抜ける。中のものがふわりと宙に浮いて──
「大丈夫か!」
頭上から降ってきたのは、先生の声と腕だった。
落下の残響に小さな胸が震えていた。大人の大きな腕に包まれたまま、息を弾ませる。
「先生、」
「怪我はないか」
「……はい」
あのまま谷底へと落ちてしまったら、という恐怖心はいつの間にか、また駄目だった、このままではここにはいられないのではないか、という焦燥感に変わっていた。
「先生、私は居残りでしょうか」
声が震える。
「うーむ」
先生は言葉を選んでいるらしかった、その優しさがかえって自分の心を冷やしていく。
「心配せんでも居残りにはならんよ。ただみんなより一回でも多く、腕立て伏せをやりなさい」
「わかりました」
そう助言をもらってから、来る日も来る日も、人より多く、長く鍛えてみたとて、実技の腕は少しも良くならなかった。走っても後ろから数えた方が早く、武器を使えば力負け、同級生はみるみるうちに力をつけているというのに、得意武器の一つも見つからない。置いていかれる、このままでは、生きていけない。いつも自分だけが遅れる夢を見ては、その余韻でぼうっとする。
同級生には「細っこいのに頭でっかち」などと揶揄われる始末だった。いや、揶揄われる方が幾分ましで、お前には出来ないだろうから、と気を遣われるのが何より堪えた。教室にいても独りぼっちで、まるで自分だけ別の島にいるようだった。
「なあ、ちょっといいか」
声をかけられる。それは長屋の同室だった。けれど自分は目を合わせることができない。眩しいほど出来る奴の助け舟には、穴が空いているような気がしてならなくて、無視をして走り去る。呼び止める声も振り切って、ただ不安と孤独の中へと駆け出していった。
でも本当は助けてほしかった。彼に応えていれば孤独から救われていたかもしれないのに。波が高く舟すら届かない。ただ独り、潮が激しく打ち付ける海岸で震えている。独りは嫌だ。叫んでみても、潮騒がかき消していく。届かない。どれだけ叫んでも──。
「……独りでやっても悲しいだけだからな」
仙蔵の声は憂いを帯びていた。長く一緒にいるのにまだ見たことのない、仙蔵の孤独を垣間見た気がして、文次郎が言いかけた軽口をぐっと飲み込む。
「やるならお前と、って決めてたんだ」
次の一言にはいつもの調子に戻っていた。けれど小さな仙蔵が独りぼっちで泣いているような気がして、手を伸ばさずにはいられない。文次郎が食い気味に言葉を重ねる。
「やろう、気が済むまで。思い出作りしようぜ」
仙蔵が何かに気づいたかのようにして目を上げ、頷いた。その瞳が一瞬キラリと光る。
「うん、大学三年生の秋なんて二度と来ないんだから」
華々しいキャンパスに秋の乾いた寂寥の風が吹いて、二人の前髪を揺らす。そうだ、もう三年生になってしまったのだ。こうしていられるのも今年が最後かもしれない、時限へと近づく音が耳の奥で響いて、文次郎が仙蔵の肩を思わず叩くと、彼は小突き返した。
瓶ビールを片手に構内を練り歩き、大道芸サークルの演目をただなんとなく見て、現地の味で美味いと評判の国際交流サークルのタコスを手にした頃には、日差しは頭の真上を超えていた。ベンチに腰掛け、仙蔵が豪快にタコスを頬張る。雄々しい仕草にもかかわらず、その横顔は涼やかで、口の端についたソースさえも化粧に見えるなと、文次郎は見惚れるばかりだった。
「そんなに見つめて、私の顔に何かついてるか?」
「そういうのは本当についていない時に言うんだよ」
文次郎が口の端を指差すと、彼は大人しく親指で拭い、文次郎に擦りつけようとした。バカやめろ、と言うと撥水のウィンドブレーカーなんだからいいだろと言い返される。しかし会話が途切れると、騒々しいのにどこかしんとして胸の奥が疼く。青春の残り時間を風が急き立てるようだった。
「文次郎、私の学科の出し物見て、そのあと研究室に来てみないか?」
「え、ああ」
急な提案に、感傷混じりの風にぼんやりしていた文次郎の声が裏返る。
「いいのか? 俺がいても、邪魔じゃない?」
「先輩方はどうせ実験室だ、問題ない。そもそもお前は騒ぐタイプじゃないだろ」
それに静かに話せるし、と仙蔵が付け加えた。
「というか作ったんだよ、展示」
「それ早く言えよ」
「お楽しみは最後に取っておく派だろ、お前は」
仙蔵がカラリと笑う。彼の言う通りなのが少し悔しくて、文次郎が仙蔵の膝を掴んで揺らした。
応用化学科三年、立花仙蔵。肩までかかる美髪と端正な顔立ちは、あっという間にキャンパスの注目の的になった。男か女かどっち? という好奇の目は勿論、並木道を歩けば必ず誰かが振り返るほどで、噂のキャンパスボーイと学生新聞から声がかかることもあった。しかし彼は浮ついた雑音をさらりと躱して、誰ともつるむことなく、研究室のある棟に消えていく。その様がミステリアスさを際立たせ、余計に噂になっているのを文次郎は知っていた。
数ヶ月前、蝉の声が遠慮がちに響き始めた日のことだった。まだキャンパスにいるなら一緒に帰ろうと仙蔵からメッセージが来て、文次郎は図書館のゲートを潜った。夏の夕陽の差し込む自習スペースに一人、仙蔵が参考書と向き合っていた。目元に落ちる影、髪に宿る艶ややかな光輪。それはまるで美術品のような神々しさで、文次郎は息を呑む。
あぁ、俺も有象無象の人と変わらず、その美しさに見惚れる側の人間だったのだ。しかし、知的で孤高で、世間の騒めきと無縁の道を進もうとしているのは、自分だけが知っていたい。ミステリアスなんかじゃなく、散らかった部屋で寝ていて、料理の後片付けが苦手であることも。
目の前に座ると、仙蔵が嬉しそうにニヤリと笑う。この笑みも、俺だけが知っている。
「友達いないのかよ」
「お前と化合物だけで十分だよ」
仙蔵は冗談か本音かわからない一言を放ち、本を片付けながら小声でくつくつと笑った。
「……でな、このグラフ、見ての通り毎回不完全燃焼が起こるタイミングがバラバラなんだ。しかし、熱重量分析の脱炭素反応のオンセット温度をプロットすると規則的にシフトしていてな、これがかなり面白い現象で」
「うん」
「さらにだな、発火閾値と放熱速度の比を計算してみたら、ほぼ同じ値に収まっていることがわかったんだ。この二つの規則性を総合して考えてみるに、どうやら部分的な相転移を伴う未知の熱伝達モードが隠れている可能性が高い」
「……うん」
応用化学科は研究室での研究紹介と、子ども向けの科学ショーを行っているらしい。パネルを背にした仙蔵が立板に水を流すかのように、カンペもないまま流暢に話す。その瞳は興に乗ってキラキラと輝いていた。邪魔をしないよう文次郎が相槌を打つ。
「失敗だと思ってた揺らぎが、実は物性の影だった、それが面白い」
「なるほど、ようやくわかった」
過ぎ去る言葉の川で、息継ぎをするように文次郎が答えると、仙蔵が笑みを浮かべる。
「大層なこと、やらせてもらえてるんだな」
「決して自慢するつもりはなくて、割り当てられた実験がたまたま当たりだったにすぎないよ」
彼は再びパネルに目を向けて興奮げにノックする。
実験の事となると仙蔵は止まらない。百年の恋もいっぺんに冷めかねない、理屈っぽいその様を、仕方ないと受け止めるのが文次郎の役目でもあった。いや、それすら面白がれるのは自分しかいないと自惚れすら感じて、文次郎がパネルに目を向ける。しかしそれは、読み取れそうで読み取れないグラフと専門用語のオンパレードだった。
中学生の時から一緒にいて、ほとんどの時間を共にして、一緒に故郷を離れて進学して。仙蔵のことはなんでも知っていると思っていたけれど、彼は彼なりの世界を獲得しているのを突きつけられる。それも自分が全く知らない世界だ。きっと遠く、どこへだって行けるだろう。専門用語を遠慮なく使って朗々と話す姿を、確かに面白がってはいたが揶揄う気にはなれなかった。文次郎が口を開く。
「なんというか本当に好きなんだな、実験」
「あぁ、大好きだ。面白い」
面映げもなく言い放つ姿は目が眩むほどで、文次郎は目を細めた。それに応えるように仙蔵が緩く微笑み返す。
「でもそれを教えたのはお前だよ」
今日の天気とは真逆、秋の嵐が教室の窓ガラスに打ちつける日だった。椅子を抱え込んで後ろの席の仙蔵と向かい合う。なんて言ったかは覚えていない。しかし、仙蔵と離れるのが惜しくて提案した志望校を、彼はあっさりと進路希望書の一番上の欄に書いたのだけは覚えている。雨の降り頻る中、誰もいない教室だけが世界に浮かんで二人ぼっちになったようなあの夕方が頭を通り過ぎていった。
そんなこと言うなよ、俺の手柄なんかじゃない。夢を叶えたのはお前の実力だし、お前の方が遥か高みにいるんだ。文次郎が目を伏せる。
「そうだっけ」
「とぼけるなよ」
一瞬の沈黙が二人の間に落ちる。しかし、すぐに祭りのざわつきが洗い流していった。
「研究室覗いてみる?」
「邪魔にならなければ」
仙蔵に促されるまま彼の後をついていく。時折、子どもたちの感嘆の混じった歓声が教室から飛び出した。廊下を進み、階段を登ると次第に喧騒は遠ざかり、階段を登る足音がカウントダウンのように踊り場いっぱいに響く。関係者以外立ち入り禁止の看板を越えると、いよいよ騒めきは僅かに聞こえるほどになり、祭りとは無縁の雰囲気が流れた。
それはまるで、今まで友達だった仙蔵が、異世界に身を投じて何者かに変容していくかのようだった。俺の知らない仙蔵がいる。俺の手を離れて、どこかに行ってしまう。彼が電気のついていない薄暗いフロアに足を踏み入れたその時だった。
「待って」
文次郎の声は揺れていた。いや、呼び止めたってどうしようもないだろ。何を焦ってるんだ俺は。しまったという顔をする。
「なんだ」
本当は腕を掴んで引き留めたかった。けれど出来なかった。友達だから、はなから自分の腕の中にはいなかったのだから。文次郎が続く言葉を探す。
「……いや、ほんとにいいのかなって、研究室行っても」
仙蔵が立ち止まって身体ごと文次郎の方に向ける。暗がりの中しんとした時間は、進路希望書の日と同じく世界にたった二人だけのような感覚にさせた。この時間が続いてほしいと祈りながら、文次郎が彼としっかり目を合わせる。視線が交わる限り、一緒にいられる気がした。仙蔵が瞳を揺らしながら口を開く。
「私の普段いる場所を、文次郎に見せたいんだ」
予想外の返事に文次郎が眉を上げる。彼の言葉に含まれた好意が胸を鷲掴みにして鼓動を速めた。どこかへ行ってしまうなんて杞憂だと受け取っていいのか?
「三年生だから偉そうに言えた身分じゃないが、お前には見てほしい……というか知ってほしいんだよ、ダメか?」
「ダメじゃない」
照れて誘いを引っ込められる前に文次郎が言葉を重ねた。花火の誘いも、研究室の誘いも、何かの熱が仙蔵を突き動かしているのだろう。その熱が、自分の指先に血を通わせる。
「あ、ありがとうな」
甘さに胸がはち切れそうになって思わず自分のリュックの肩紐を掴む。パッドは指の形に一瞬沈み込んだが、気恥ずかしさがすぐに押し返した。
仙蔵の所属している研究室は化学系とだけあって高校の理科室のように明るく、こざっぱりとしていた。落ち着かなくてキョロキョロ辺りを見渡すと、お前の座ってるソファで誰かが寝てたりするんだ、などと仙蔵が笑った。やがて彼の先輩らしき人物が戻ってきて、文次郎が立ち上がって頭を下げた。
「立花の友達?」
「はい、中学からのツレで」
「潮江って言います」
「青春だねえ……彼女だったらぶっ飛ばしてたよ」
「ホントですか」
「半分マジで半分冗談。いいよ、いても」
仙蔵の表情は自分に向けるそれと違って、軽口を叩いているのにどこか大人びていて、文次郎は少し置いて行かれたようになる。その様子に気づいたのか仙蔵が文次郎を親指で指した。
「彼、経済学部なんです」
「そうなの? ちょうどよかった。今度科学館で展示やんのよ、うちの研究室」
先輩が二人を交互に見た。
「立花、まだ潮江くん誘ってないでしょ?」
「まだです。いいんですか?」
「そりゃ素人にもわかんなきゃいけない展示なんだから、潮江くんにモニターやってもらおう」
いいよね? という声を聞いて文次郎は「ぜひ」と言葉を返した。先ほどしていたパネルも含めて、最新の研究を知ってもらうという試みらしい。文次郎が先ほどの仙蔵の様子を話すと、立花の説明は及第点だな、と先輩が笑った。
窓から研究室に夕陽が差し込む。祭りとは独立した仙蔵の世界に受け入れてもらった気がして、文次郎の頬は一層明るく光っていた。
研究室棟を出る頃には空に夕闇が溶けていた。バケツと水を研究室から持ち出した二人が祭りの灯りを背にして、校舎の裏手に向かっていく。砂利を踏みしめる音が、建物の外壁に反響して二人の距離を埋める。
「この辺ならいいだろ」
街灯には照らされない暗がりに立って、仙蔵が足元を確認するように砂を蹴った。
「花火、湿ってたらどうする?」
「一本くらいは生き残ってるだろ」
そう言いながら仙蔵が花火セットの袋を破き、手持ち花火を一本取り出す。華々しい秋が終われば長い夜の冬が来る。しかし、仙蔵が点火した花火は真っ赤に光り、音を立てて夜を裂いた。
「湿ってなくてよかった」
仙蔵の顔にも笑みが灯る。
「夏にやろうと思ってそのままだったんだ」
「言ったらいつでもやったのに」
「なんで忘れちゃったんだろうなあ」
仙蔵から派手な色で装飾された一本を手渡される。文次郎が火を点けると、煙と共に緑が夜に散る。思わず感嘆の声を漏らすと、仙蔵が嬉しそうに声を上げて笑った。ほらといいながら花火をこちらに向けるので、やめろと笑って緩く手で制する。風向きのせいで煙がこちらに流れて、硝煙の匂いが鼻を突いた瞬間、ぐらりと足元が揺れる。目眩か? ビールは飲みすぎていないはずだ。煙の向こうの花火の光も、学園祭の声も徐々に遠くなっていく。立ちくらみにしては意識は明瞭だった。なんだ、白昼夢か? 摺り足をすると砂利ではなく土の感触がした。
——煙が晴れた視界の先は深い夜の森だった。文次郎は、自分が何かから身を潜めているのだと理解した。明晰夢に似ている。主人公は自分だが、誰かでもある。夢は夢でも本当で、筋の通っていない理屈すら真の世界だ。動こうとした瞬間、足に刺すような痛みが走る。このままで逃げ切るのは難しい。さらに今、一人で対処できる数以上の追っ手の気配を感じる。手負いであれば接近戦もこなせない。故用兵之法、少則能逃之、不若則能避之。ギリギリ走り切れるか、しかし刻一刻と敵は近づいている。
その時、炎の尾が頭上を通っていった。着火した鳥の子だ、この戦法を自分はよく知っている。一拍置いてあたり一面が煙霧に包まれ、硝煙の匂いが漂った。助けが入った安心以上に、嗅ぎ慣れた香りに緊張の糸がふと緩む。この世で一番信じている、彼奴が愛する黒色火薬の炸裂ならば俺はもう大丈夫だ。爆煙の中、誰かが自分の名を呼んだ。それは仙蔵とよく似た声色だった。
「花火、終わってるぞ」
「……ほんとだ」
手元に目を落とすと、燃え滓だけが残っていた。お前がいてくれれば俺は大丈夫、という目を開けたまま見る夢の残響が胸を揺らし続ける。この熱の散らし方がわからなくて、燃え尽きた花火をバケツに放り込む。仙蔵は笑いながら、どうしたんだ急にと文次郎の手首を包み込む。彼の冷えた手のひらが季節を物語っていた。
「上着の袖もたついてんの、燃え移ったら危なくないか」
誤魔化すように文次郎が仙蔵のカーディガンを脱がそうと襟を摘む。あぁ言われてみればと彼が言ったのを見て文次郎がウィンドブレーカーを脱ごうとした。
「……俺の着な」
突然の提案に驚いたように仙蔵が文次郎を見て、嬉しいような笑みを一瞬浮かべた。そして呆れたように眉を下げて息をつく。
「化繊もまぁまぁ危ないんだぞ」
「確かに」
「カッコつかなかったな、残念」
仙蔵は優しい手つきでウィンドブレーカーを脱ぐ手を制する。
「でもありがとう」
その時、ドンと大きな音がした。振り返ると花輪が夜空に咲いて、ゆっくりと火の粉が下の方へ落ちていく。フィナーレを告げる花火に遠くから歓声が上がった。
「もう終わりか、早いな」
「見に行くか?」
「いーや、お前とここで花火してる方が楽しいよ、私は」
そう言って仙蔵が新しい花火に火をつけると、緑、赤、白と色が移り変わる。彼は笑って写真!と言いながら、手持ち花火を振り回して夜闇に言葉を描く。少しずつ減っていく花火が日々の終わりの寂寥を呼んできた気がして、文次郎も負けじと空に模様を作った。
何本かの手持ち花火と、ささやかな吹き出し花火を終えた後、ふと仙蔵がしゃがんで手招きをする。文次郎が隣に腰を下ろすと、彼は線香花火を手渡した。めいめい火をつけて、球が大きく膨らみ、控えめに弾けるのを見つめる。大きな音を立ててまた一つ空に花が咲く。しかし二人はそれに目もくれずに、互いの小さな花火を見つめる。
儚く燃え尽きるさまに落ち着かなくなって文次郎が隣に顔を向けると、仙蔵は愛おしいものに向ける眼差しをしていた。その眼差しも自分だけが知っていたいと、文次郎の目は離れない。白昼夢の余韻のせいだろうか、吹き抜ける冷たい風のせいだろうか、信頼と独占と——恋にも似た胸の高鳴りが、火球に合わせて小さく呼吸していた。
***
(中略)
部屋の鍵を開ける頃には、前髪が一つにまとまってしまうほど濡れ鼠になっていた。
「やっと着いた……お邪魔します」
こんな状況でも律儀に挨拶をする文次郎の姿に、最後の一押しを押されてしまって、仙蔵が大きな声をあげて笑い出した。
「文次郎、前髪がすっかりぺたんこだ」
「え? あぁほんとだ」
文次郎が前髪を掻き上げると額が露わになる。その仕草はどこかドラマのようで、可笑しい気持ちは急にどこかへ行ってしまい、仙蔵は息を呑んだ。吊り橋効果ってやつか? と過ぎる冷静な思考は、あっという間に鼓動に掻き消されていく。
「これで元通りだろ」
「いや、毛先がアニメみたいになってる」
文次郎が息を整えながら、つられて吐くように笑った。玄関灯の暖かい明かりが心を緩めていく。彼のスウェットの色はすっかり変わっていて、リュックの表面は水滴で煌めいていた。
「パソコンは無事か?」
仙蔵が声をかけると、文次郎は慌ててリュックからノートパソコンを取り出す。ガサガサと音を立てながら軽くなった鞄を仙蔵に預け、立ったまま開く。ディスプレイに照らされた顔が安堵を示した。
「よかった、生きてた」
「そりゃよかった」
文次郎のリュックをフローリング床に置いて、ウィンドブレーカーを脱ぐと、水滴がパタパタと玄関を濡らした。
「上着、ありがとう。おかげさまでトートん中のパソコンが濡れずに済んだ」
「これくらい、大したことじゃねえよ」
そう答えながら文次郎が靴を脱ぐ。するとつま先の色が変わった靴下が現れた。
「靴下、濡れてるだろ」
「まぁな」
「ここで脱いで、上がってくれないか」
わかった、と文次郎が頷く。裸足の二人は部屋に入り、仙蔵がすかさず電気と暖房をつけた。
「着替え貸すよ、ウィンブレの礼だ」
手頃な着替えを取り出すために仙蔵がクローゼットを開ける。しかし、濡れている身体に新しい服をよこすのは得策ではない気がした。
「いや、それよりもまず風呂だな、風呂沸かそう」
「ちょっと待って」
浴室に向かおうとした仙蔵を、文次郎が引き留める。
「まとめて風呂入らない?」
「まとめて?」
初めての提案だった。作為のない文次郎の声色と予想だにしない内容に、驚いて声を上げると、つられて文次郎が面食らった顔をした。
「ひ、一人一人入ってたらさ、待ってるうちに冷えるだろ。仙蔵んちの光熱費使わしてもらってるんだし」
自分で言っておいたというのに、何か決まりの悪い表情をして、取り繕うように文次郎が言葉を続ける。しかし、言っている内容は至極真っ当なように思えた。突然の雨に突然の来訪。どこか浮き足だっているのが、そう思わせていた。
「お前が嫌じゃなきゃ」
「……いいよ、入ろう」
廊下に繋がるドアを開け、ユニットバスのドアを開け放ちながら仙蔵が是だと言い放つ。文次郎の照れとぎこちなさが感染ってしまいそうで、彼の顔を見ることができなかった。
蛇口を捻ると、湯が勢いよく湯気を立てて流れ落ちる。仙蔵は手をかざして湯加減を確かめて、恥ずかしさを洗い流そうとした。しかし、文次郎もそわついているらしい。彼の照れが背中から伝わってきて、湯のように胸の底に溜まっていく。
雨ですっかり濡れたスラックスを、仙蔵が脱いで廊下に投げ捨てた。その勢いで文次郎のボトムスを掴むと、彼は一瞬だけ恥ずかしそうに目を泳がせる。
「照れるな、お前が提案したんだろ」
仙蔵が眉根を寄せると、文次郎はわかったよ、と意を決したように息をついて色の変わったチノパンを脱いだ。着込んだ上半身に比して無防備な下半身を仙蔵が鼻で笑うと、文次郎はやけになったようで、シャワーカーテンを脇に避けて浴槽の縁に腰掛ける。仙蔵もそれに倣って湯の溜まりつつある浴槽の中に立つ。血が通って冷えた足先が緩んでいった。
蛇口から流れる湯の音だけが二人の間に響いていた。文次郎は何を考えているのだろう。走って来た気の迷いか。もしそうでなかったとしても、提案に乗るつもりでいるくらいには、こいつのことが気に入っているのは間違いないのだ。湯は脛まで溜まっていた。温もりでぼんやりとした頭で仙蔵は文次郎の尖らせた唇を見つめていた。
不意に文次郎が、色の変わったスウェットに手をかけて脱ぎ、既に床の上にあったチノパンの上に重ねる。分厚い胸板、鍛えているが適度に脂肪の乗った腹筋が顕になって、仙蔵がゆっくりと目を逸らす。見慣れている裸体に今日はやたら目が留まってしまうのだ。
仙蔵が目線を外しているうちに、文次郎はいつの間にかボクサーパンツまで脱いで全裸になっていたようだった。文次郎の顔が近づく。迫られるのか、口を塞がれるのか、結局その気だったんじゃないか。仙蔵が目を閉じた瞬間、頭上からシャワーヘッドを外す音がした。
「背中、シャワーで温めていい?」
心臓の音がうるさい。急接近よりも、あらぬ想像をしてしまった自分が恥ずかしくて、耳まで血が昇っているのがわかる。風呂でよかった、温まったんだって誤魔化せるから。
「……どうぞ」
鼓動を知られないように、仙蔵が絞り出す。
シャワーを持ったまま、文次郎が仙蔵のニットを摘んだ。まだ何かあるのか。
「脱げよ、濡れるだろ」
「えっ」
指示の内容といい声色といい、どこか色っぽくて心臓の高鳴りがおさまらない。仙蔵は自分の喉から溢れでた声が裏返っていないことを祈った。
「……あぁ、そうだな」
慌てて薄手のニットを頭から脱いで、シャツのボタンを外そうとする。手が少しだけ震えていた。息を整えて一つずつ、ゆっくりと。想像と一人相撲を取っているにすぎない。自分を落ち着かせるように丁寧にシャツも下着も脱いで、一糸まとわぬ姿で文次郎に向き合った。
蛇口からの音が止んで一瞬の静寂のあと、シャワーから温かい湯が降り注ぐ。文次郎が湯を自分の頭にかけたのち、こちらに向けて、仙蔵の頭の上に持ってくる。目を閉じて湯をかぶると、先ほどの雨のような音に包まれた。
——雨の日は火薬の実験には向かない。黒色火薬は湿り気に弱いため、余程工夫をしない限り発火してくれないのだ。仙蔵によく似た忍者装束の少年は雨垂れを見てため息を吐き、硝石の入った箱を片付け、別の小箱を取り出して部屋を出た。
優しい雨ではない。板葺の屋根に激しく打ち付け、時折遠くから雷の音が聞こえるほどの雨足だった。彼は長屋の縁側を歩き、渡り廊下を行き、ある部屋へと入っていった。
明かりのない薄暗い部屋の壁には、ずらりと桶が並んでいる。それは時代劇ドラマで見たことがある代物だった。確か、討ち取った武将の首を入れる首桶だったか。彼はそのうちの一つを丁寧に下ろして、床に置いた。
蓋を開け、中から取り出したのは、瞳のない文次郎の生首だった。当然本物ではない、彼の顔を模ったマネキンである。瞳がないだけでこんなにも不気味なのかと、仙蔵が息を呑んだ。少年は部屋から持って来た小箱の蓋を開け、硯に墨を擦り始める。画竜点睛、最後の仕上げをするらしかった。
胡座をかいた脚の間に首を置き、少年が丁寧に瞳を描き込んでいく。自らの手で親友の首を模る心情を慮って、仙蔵は何も言えずにただ、生首フィギュアが文次郎になっていく様を見つめていた。瞳があるというのはこんなにも、その人をその人たらしめるのか。
雨音が耳に響くほどに、二人ぼっちの世界が輪郭をもつ。
少年は瞳を描き終えたらしい。筆を置いて、フィギュアをまじまじと眺める。眼差しは満足だけではなく、愛しい人に向ける色をしていた。
彼は文次郎の生首をじっと見つめ、ゆっくりと口付けた。唇が触れて、一拍置いて離れる。
「……冷たい」
少年のまつ毛が目元に陰を作った。いつもより肌寒い雨の日だからと言い訳できないほど、命を受け入れない冷たさがこちらにも伝わる。
「文次郎、なぁ」
少年は音を立てて何度も、偽物の文次郎の唇に口付けた。熱は一方通行で、生首は一つも表情を変えない。それでも彼は願うようにキスをした。しばらく経って唇を離した彼が、自嘲気味に笑うようにため息をついた。
「本当にならないよう願掛けで、お前の首を作って死化粧までしたというのに」
自分の額に文次郎の額を合わせる。
「……本物が欲しいとは笑止千万だな」
もう一度、もう一度と呟きながら、少年は角度を変え位置を変えながら唇を求めた。しかし相手は生き物ではない。あっという間に息苦しくなってしまう。声は次第に潤んでいった。苦しいのは秘めて届かない想いのせいだろう——
「起きてるか」
顔に湯が当たって、夢から覚める。文次郎がシャワーで小さく攻撃したらしかった。
「……顔にかけなくてもいいだろ」
「ぼーっとしてるのが悪い」
さっきの雨の日のキスは脳の錯覚だったのだろうか。しかし、唇の冷たさも切なる願いもあまりにリアルで、自分がその場にいたかのようだった。視線は自然と文次郎の唇へと向かう。少し分厚くてかさついているから、キスしたら柔らかくて少し痛いのだろう。
仙蔵は顔にかかった水滴を拭うついでに自らの唇に触れた。先ほどの白昼夢はこの感触を伝えるという選択肢を、間違いなく増やしてしまったのだ。シャワーの雨音が浴室に響く。湯気が二人の輪郭を曖昧にする。
キスしたら文次郎はどんな顔をするのだろうか。拒絶はしないにしても、付き合ってないのにこんなことダメだ、などと困惑するに違いない。互いに戸惑うだけだ、しかし一度でいいからその温もりに触れてみたかった。
「さみいな」
「うん」
文次郎がシャワーを止めると、浴室の音は水面に吸い込まれた。文次郎が浴槽にしゃがむのを見て、仙蔵もそれに倣う。脚を折りたたんで体育座りしても少し窮屈で、揺らめく文次郎のすね毛が仙蔵の脛をくすぐる。文次郎が腕を出すとちゃぽん、と控えめな音がした。
「……黙るなよ、変な感じになるだろ」
文次郎が少し蹴るように脚を動かす。雨を言い訳に家に押しかけたこと、一緒に風呂に入ろうと言い出したこと。変な状況を作り出しているのは文次郎の方なのだ。茶化して誤魔化そうとするならば、離してやらない。
「変な感じは嫌か」
「…………」
文次郎が押し黙る。頬杖をついて横顔を向けた。沈黙はイエスだぞ、文次郎。
仙蔵が指を伸ばして文次郎のすね毛を弄ると、文次郎の手が取り押さえた。手首を返して、仙蔵が文次郎の指を絡めとる。水面が跳ねた。
「だ、ダメだって……」
「何が」
やっぱりダメって言うんだな。文次郎の耳が真っ赤になるのを見て、仙蔵が絡めた指に力を込める。駆け引きベタのくせに持ち掛けるんなら、私が勝つまで付き合うぞ。心臓の鼓動が湯を伝って、彼に届いてしまえと思った。