『遅日残光』考証ノート なぜ壮年の物語なのか
そこそこ量があるのでお暇なときにどうぞ🎉
0.はじめに
そもそもの始まりは、二人の生きる世界を知りたい、ということでした。どんな世界で、どんな環境で、どんな日々を過ごしているのか。その手触りを確かめたくて背景の歴史を調べはじめ、気がつけば、文次郎と仙蔵の一生を、生まれてから死ぬまでを考えるようになりました。
この記事群は、その過程で調べたこと、考えたことの記録です。作品の解説ではありませんし、知識をひけらかすつもりはありません。これから、事実の話と、研究者の解釈の話と、私の解釈の話と、作品のための決め事の話が出てきます。どれがどれなのかは、そのつど言葉で断りながら進めることとします。
なぜ壮年という卒業後if がアツいのか、を、皆さんと共有することが本記事の目的です。
1. 定義
「壮年」という言葉を作品を紹介するときに使っています。というのも、三十代後半から四十代を指すと一般的に思われているからです。とはいえ、時代によってどの年齢を指すのかは違うので、まず初めに言葉の側から確かめておきたいと思います。
「初老」という言葉があります。いまは六十歳前後を指して使われることが多いのですが、本来は四十歳の異称です。昔の長寿の祝い(算賀といいます)は四十歳から始まり、以後十年ごとに祝いました。その最初の祝いである四十の賀を、初老の賀と呼んだそうです。老いの勘定は、四十から始まっていました。
つまり当時の感覚では、四十代はもう老いの入口です。ここで扱う「壮年の忍び」は、当時の言葉に置き直すと「初老の忍び」になります。この置き直しを、頭の隅に置いたまま進んでもらえると、後の理解がスムーズかと思います。
2. 問い
忍びの物語は、ふつう若い身体を前提としています。跳ぶ、走る、塀を越える、屋根裏に潜むなど……思い浮かべる動きのほとんどが、身体の頂点を前提にしています。身体の頂点は十代後半から二十代にあり、物語もそこに置かれてきました。原作の学園がまさにそうであるように、忍びの技術を学ぶのも少年たちです。
ところが『遅日残光』という二次創作が描くのは、四十代の忍びです。当時の言葉でいえば、初老の忍びです。
壮年という選択が好みの問題ではなく、調べていった先の帰結だったことを示していくのが本記事の役割です。検証は三段構成からなります。(a) 原作の世界がいつ頃なのかを定める。(b) 忍びという職能の「適齢」を考える。(c) 同じ時期に、時代の側で何が起きていたかを確かめる。三つを重ねると、一つの同時性が見えてきます。
3. 年代の定位: 原作の中の証拠から
まず、不動点から述べます。火縄銃の伝来は天文12年(1543)、種子島と言われています。ポルトガル人を乗せた船が着き、島主が銃を買い求めたという、教科書でおなじみの一件です(ヨーロッパ側の史料から一五四二年とする説もある)。ここから先、この列島に鉄砲が存在します。
重要なのは、伝播の速さです。伝来からほどなく国産化が始まり、数年のうちに堺・国友・根来といった生産地で量産の段階に入って、十数年のうちには合戦で当たり前に使われる武器になっていきます(三鬼 2012)。刀鍛冶の技術と商人の流通網が、もともとこの列島に揃っていたのが大きな影響であると考えられています。
原作にはこの火縄銃が登場します。銃が珍しがられる世界ではなく、銃のある世界です。そしてもう一人、南蛮風俗を好む有能な大名・黄昏甚兵衛がいます。造形に織田信長を思わせるところのある人物ですね。南蛮の文物や信仰が大名たちに届くのは宣教師の来日(1549年のザビエル以後)からのことですから、この大名の存在も、時代の目盛りとして読めます。
ここからは私の推定になります。原作の生徒たちは、おおむね十歳から十五歳。銃が当たり前にある世界で、信長を思わせる大名が活動している——この二つを重ねると、学園の「いま」は永禄の後半から元亀の頃(1560年代後半〜1570年代初め)に、生徒たちの生まれはおおむね永禄の頃に落ち着きます。念のため言い添えると、原作は年代を特定していません。特定しないのは原作の設計です。ですからこの定位は、原作の読み方の提案ではなく、あくまで本作のための作業仮説です。
『遅日残光』は、この仮説に従います。ここから数えると、二人の四十代はおおむね慶長年間(1596〜1615)の前半に重なります。関ヶ原(1600)を四十代で迎える世代です。
この世代の一生を、年表に重ねてみましょう。生まれたときには、銃はもう広まりつつあります。二十歳前後で長篠の戦い(鉄砲が合戦の主役に躍り出る戦)です。三十代で太閤検地と刀狩が進み、三十代の終わり頃に朝鮮出兵が始まって、四十代で関ヶ原を迎える。彼らにとって鉄砲は「新兵器」ではありません。銃のある戦を当たり前として育つ、最初の世代です。そして、銃が完成させていく戦争の形は、5章でみる「統制」に、やがて職能を明け渡していく世代でもあります。
4. 忍びは何で老いるか: 適齢の検討
4.1 職能の中身
では、忍びとはどんな仕事だったのでしょうか。夜討ち、放火、城への潜入や乗っ取り、諜報、調略(敵方への働きかけ)など、戦国の忍びの実像を探る近年の研究は、こうした夜働きの実務を担う者たちの姿を、具体的に描き出しています(平山 2020、山田 2016)。
一見、身体の仕事です。塀を越えるのも夜道を駆けるのも、たしかに身体です。けれども、その実行を支えるものを数え上げていくと、様子が変わってきます。土地勘と人脈、方言と作法、火薬の調合、見たものを覚えて正確に持ち帰る技術、すなわち経験がものをいう項目が並びます。忍術書には「七方出」という変装の型が伝わっています。虚無僧、出家、山伏、商人、放下師、猿楽、常の形の七つです(中島 2017)。商人に化けて城下を歩くには、相場と口上と道中の作法を知らなければ、一言で露見します。変装とは衣装の問題ではなく、知識の問題なのです。
忍びの任務でいちばん重要なのは、敵方の様子を主君へ伝えること、戦闘を極力避け、生き延びて戻ることだったとされます(山田 2016)。私は、忍びの職能は身体技能と同じかそれ以上に、知識労働の性格が強いと考えています。
もう一つ、書物の側からも見ておきます。延宝4年(1676)にまとめられた『万川集海』は、伊賀・甲賀の術を集大成した忍術書です。あらゆる川が海へ集まるように諸流の術を集めた、という書名で、その紙幅の多くを、心の持ちよう、人の使いよう、謀り事が占めています。道具の巻もありますが、主役ではありません(中島 2015)。ただし、これは泰平の世の編纂物です。戦の絶えた時代に、失われていく技を書き残そうとした書物ですから、戦国の実態をどこまで映しているかは、割り引いて読む必要があります。
4.2 一つの記録:島原の乱の甲賀十人
では、実態にもう少し近づける記録はないのでしょうか。年齢のわかるものが、一つあります。
寛永14〜15年(1637〜38)の島原の乱(島原・天草一揆)。九州でキリシタンと農民たちが蜂起し、幕府が大軍を送って鎮圧した大一揆です。元和偃武から二十年余り、泰平が固まったあとの大きな戦でした。このとき幕府方に、甲賀の忍び十人が、みずから願い出て加わっています(山田 2016、川上 2016)。
任務の中身が、具体的に残っています。寛永15年1月6日、松平信綱は甲賀者に、塀際までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の形を調べて絵図にして出すよう命じました。その夜のうちに五人が塀の下まで忍び寄り、城方が松明を投げて用心するので味方の死骸に紛れて隠れ、城中が静まった時分に測るものを測って、忍び込んだ証拠に出城の角へ堅木を差し込んで帰ってきます。後日には城内へ入り、海側の塀際に置かれていた兵糧を十三俵盗み出し、城中で毎夜何かを唱えているのを、矢狭間ごしに聞き取りもしました(山田 2016)。
失敗も記録されています。二十七日の夜に五名で忍び込んだところ、望月与右衛門が落とし穴に落ちて騒がれます。芥川七郎兵衛がなんとか引き上げて逃げ、塀に飛び乗ったところで二人とも石を打ちつけられ、半死半生になったのを、残る三人が肩に担いで戻ってきました(山田 2016)。
そして、年齢です。二十代の者もいたものの、半数は五十代から六十代だったと、甲賀の記録として紹介されています(川上 2016)。半分以上が、当時の言葉でいう初老をとうに越えています。それでいて、落とし穴に落ちる或いは引き上げて塀に飛び乗るという身体の仕事は若い側が担っています。
ここからは私の解釈です。この記録は「高齢の忍者がいた」という以上のことを示しているのではないでしょうか。判断と経験は年長に、身体は若年に……職能の重心が歳とともに身体から知へ移っていく構造が、部隊の形そのものに現れていると解釈できます。忍びの適齢を身体の頂点ではなく、知識と経験の頂点——四十代前後——に置く読みを、この記録は裏づけてくれると考えました。
ただし、史料には注意が要ります。出典は『鵜飼勝山実記』の系統と「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」(山中文書)で、どちらも由緒書、すなわち家の来歴と功績を書き上げ、多くは仕官や恩賞を求めて差し出す文書です。つまり自己申告です。手柄は盛られやすい。ではどこを割り引き、どこを信じるか。功績の華々しさは疑ってかかるとして、部隊の年齢構成のような地味な情報は、盛る動機の乏しい種類の情報です。それでも数字は数字とする、そういう距離感で使うことにしました。
4.3 小結
もちろん、一つの記録から言えることは限られます。それでも、職能の中身(4.1)と部隊の編成(4.2)は、同じ方向を指しています。忍びは身体で老いる前に、知で熟す。当時の言葉が「初老」と呼んだ歳は、この職能ではむしろ頂点にあたる、と解釈します。
5. 時代の側: 群雄割拠から統制へ
三段の最後です。忍びが知で熟していくそのあいだ、時代の側では何が起きていたのでしょうか。年表を抜粋します。
事件を順に追っていくと、武器の話が統制の法に変わり、戦は大陸へ出て、国内へ戻り、最後に制度が戦そのものを閉じている、という構造が立ち現れます。この流れを支えた仕組みを、二つピックアップします。
一つは石高制です。太閤検地では、役人が実際に竿を入れて田畑を測り、村ごとに検地帳という帳面へ、土地の等級と石高と耕す者の名前を書きつけていきました。石高とは、土地の生産力を米の量で表した数字です。この数字を基準に、年貢と、軍役(主君に対する軍事動員の義務)が課されます。つまり石高がわかれば、その土地から何人の兵が出せるかを計算できます。石高で測られた動員力が、大名の配置換えと対外出兵を可能にしました(堀 2010)。
刀狩は、その対になる政策です。百姓身分から刀や鉄砲を取り上げ、戦う者と耕す者を身分として分けていく、のちに兵農分離と呼ばれる流れの目に見える一歩でした。
もう一つは「惣無事」です。天正13〜15年頃、豊臣政権は大名どうしの私的な戦争を禁じていきます。これを政権による平和の強制として捉える見方があります。ただし近年は、まとまった「惣無事令」という法令があったのか、それとも個別の停戦命令の集まりだったのか、議論があります(堀 2010)。
ここからは私の解釈です。私は太閤検地と刀狩を、国内統治の仕上げとしてだけでなく、対外出兵への足がかりであると考えました。検地は動員力の測定であり、刀狩は後方の武装解除ということになります。石高で兵の数が計算できるようになり、国内の火種を減らしてから、大軍を外へ出す。政策の並び順がからそのように解釈しました。もっとも、意図の証明ではなく結果からの読みも混ざりますから、これは私の一解釈として置いておきます。
そのうえで、一つ確かめておきたいことがあります。戦国の終わりは、ふつう大坂の陣と元和偃武(1615年)に置かれます。けれども「戦争を前提とする職能」にとっての終わりは、それより早く、統制の進行とともに段階的に来ます。忍びを雇っていたのは、戦を続ける大名たちです。忍びは傭兵、つまり戦のたびに雇われる存在であり、その市場は、大名たちが恒常的に私戦を続けることの上に成立している。私戦が禁じられ、戦が政権の事業へ一元化されていくにつれて、雇い主の側の需要が細っていく。需要は1615年に突然消えたわけではなく統制の一段ごとに、細っていったのではないかと考えられます。
私戦の禁止と戦争の一元化は、平和の宣言よりも先に、傭兵の市場を終焉に向かわせたと解釈することができます。
6. 交点——同時性
3、4、5章で述べたことの総括です。
銃のある世界を当たり前として育った世代が、職能の適齢である四十代に達するのは、1590年代から1600年代。まさにその十数年に、職能の前提である恒常的な私戦が、制度の側から解体されていきます。
つまりこの世代は、最も多くを知り、最も遠くまで見通せる歳に達したちょうどその時に、知識の買い手を失うことになります。職能の全盛と、職能の前提の消滅とが、同じ十数年に重なることが明らかになりました。
この同時性は、個人の不運ではなく構造です。そしてこの構造は、若い忍びでは書けません。若ければ、アンラーニングできたかもしれない。しかし、そうするには遅すぎる年齢・全盛の歳においてのみ、積み上げたものそれ自体が悲しくも宙に浮くのではないでしょうか。
本作が壮年を選ぶ理由は、ここにあります。
遅日は、春の季語です。日は一年でいちばん長くなりながら、それでも暮れていきます。
余談
第6章で「構造」と呼んだものを、端的に言うと「歴史のうねり」になります。歴史のうねりに翻弄される男は、悲しくて、セクシーじゃないですか! 積み上げてきたものの価値が、本人の落ち度ではないところで動いてしまう、その渦中にいる男の顔を、私は見たい!!私の性癖です。見たいよ〜ん!! 侯孝賢の悲情城市とかエドワード・ヤンの牯嶺街少年殺人事件とかが大大大好きなのですが、そんな感じで描き手である私がウワーーーとなりながらプロットを練りました。
もう一つ。私の思うBLとしての旨みの話になるんですが、歴史のうねりに生き方を迫られるというのは、これまでどう生きてきたかを問い直させられる、ということでもあります。そのときに、これまでの生き方の核に相手がいたことの重みがあるという……私が壮年に感じている萌えの芯は、たぶんここです。若ければ、恋はこれからの話でいられます。壮年の恋には「これまで」の厚みがあって、生きてきた時間がそのまま、ふたりの話の重さになる。宙に浮いてしまった「積み上げたもの」の芯に、相手がいる。こんな悲しいことがあるんでしょうか!!!壮年BL もっと読みたい。
それから、いろいろ調べて思ったのが、記録に残ったのは、名前と年齢の並びと任務の首尾だけです。けれどもその一人ひとりに、ご飯を食べて眠る日々があったはずで、そこから先を考えるのは学術研究でも考察でもなく、フィクションの仕事だと私は思っています。私が二次創作を作っている理由の、たぶん半分はここにあります。
そしてこれは、戦国だけの話ではない気がしています。職能の前提が、本人の与り知らないところで動く、これは時代固有の悲劇に見えて、いつの時代にもある話です。私はその普遍性に萌えています。
読む人を選ぶ話なのは重々承知しているのですが、少しでも萌えが共有できていれば幸いです。
別稿では文次郎と仙蔵の卒業後の設定についてもお話しできればとおもいます。
参考文献
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そこそこ量があるのでお暇なときにどうぞ🎉
0.はじめに
そもそもの始まりは、二人の生きる世界を知りたい、ということでした。どんな世界で、どんな環境で、どんな日々を過ごしているのか。その手触りを確かめたくて背景の歴史を調べはじめ、気がつけば、文次郎と仙蔵の一生を、生まれてから死ぬまでを考えるようになりました。
この記事群は、その過程で調べたこと、考えたことの記録です。作品の解説ではありませんし、知識をひけらかすつもりはありません。これから、事実の話と、研究者の解釈の話と、私の解釈の話と、作品のための決め事の話が出てきます。どれがどれなのかは、そのつど言葉で断りながら進めることとします。
なぜ壮年という卒業後if がアツいのか、を、皆さんと共有することが本記事の目的です。
1. 定義
「壮年」という言葉を作品を紹介するときに使っています。というのも、三十代後半から四十代を指すと一般的に思われているからです。とはいえ、時代によってどの年齢を指すのかは違うので、まず初めに言葉の側から確かめておきたいと思います。
「初老」という言葉があります。いまは六十歳前後を指して使われることが多いのですが、本来は四十歳の異称です。昔の長寿の祝い(算賀といいます)は四十歳から始まり、以後十年ごとに祝いました。その最初の祝いである四十の賀を、初老の賀と呼んだそうです。老いの勘定は、四十から始まっていました。
つまり当時の感覚では、四十代はもう老いの入口です。ここで扱う「壮年の忍び」は、当時の言葉に置き直すと「初老の忍び」になります。この置き直しを、頭の隅に置いたまま進んでもらえると、後の理解がスムーズかと思います。
2. 問い
忍びの物語は、ふつう若い身体を前提としています。跳ぶ、走る、塀を越える、屋根裏に潜むなど……思い浮かべる動きのほとんどが、身体の頂点を前提にしています。身体の頂点は十代後半から二十代にあり、物語もそこに置かれてきました。原作の学園がまさにそうであるように、忍びの技術を学ぶのも少年たちです。
ところが『遅日残光』という二次創作が描くのは、四十代の忍びです。当時の言葉でいえば、初老の忍びです。
壮年という選択が好みの問題ではなく、調べていった先の帰結だったことを示していくのが本記事の役割です。検証は三段構成からなります。(a) 原作の世界がいつ頃なのかを定める。(b) 忍びという職能の「適齢」を考える。(c) 同じ時期に、時代の側で何が起きていたかを確かめる。三つを重ねると、一つの同時性が見えてきます。
3. 年代の定位: 原作の中の証拠から
まず、不動点から述べます。火縄銃の伝来は天文12年(1543)、種子島と言われています。ポルトガル人を乗せた船が着き、島主が銃を買い求めたという、教科書でおなじみの一件です(ヨーロッパ側の史料から一五四二年とする説もある)。ここから先、この列島に鉄砲が存在します。
重要なのは、伝播の速さです。伝来からほどなく国産化が始まり、数年のうちに堺・国友・根来といった生産地で量産の段階に入って、十数年のうちには合戦で当たり前に使われる武器になっていきます(三鬼 2012)。刀鍛冶の技術と商人の流通網が、もともとこの列島に揃っていたのが大きな影響であると考えられています。
原作にはこの火縄銃が登場します。銃が珍しがられる世界ではなく、銃のある世界です。そしてもう一人、南蛮風俗を好む有能な大名・黄昏甚兵衛がいます。造形に織田信長を思わせるところのある人物ですね。南蛮の文物や信仰が大名たちに届くのは宣教師の来日(1549年のザビエル以後)からのことですから、この大名の存在も、時代の目盛りとして読めます。
ここからは私の推定になります。原作の生徒たちは、おおむね十歳から十五歳。銃が当たり前にある世界で、信長を思わせる大名が活動している——この二つを重ねると、学園の「いま」は永禄の後半から元亀の頃(1560年代後半〜1570年代初め)に、生徒たちの生まれはおおむね永禄の頃に落ち着きます。念のため言い添えると、原作は年代を特定していません。特定しないのは原作の設計です。ですからこの定位は、原作の読み方の提案ではなく、あくまで本作のための作業仮説です。
『遅日残光』は、この仮説に従います。ここから数えると、二人の四十代はおおむね慶長年間(1596〜1615)の前半に重なります。関ヶ原(1600)を四十代で迎える世代です。
この世代の一生を、年表に重ねてみましょう。生まれたときには、銃はもう広まりつつあります。二十歳前後で長篠の戦い(鉄砲が合戦の主役に躍り出る戦)です。三十代で太閤検地と刀狩が進み、三十代の終わり頃に朝鮮出兵が始まって、四十代で関ヶ原を迎える。彼らにとって鉄砲は「新兵器」ではありません。銃のある戦を当たり前として育つ、最初の世代です。そして、銃が完成させていく戦争の形は、5章でみる「統制」に、やがて職能を明け渡していく世代でもあります。
4. 忍びは何で老いるか: 適齢の検討
4.1 職能の中身
では、忍びとはどんな仕事だったのでしょうか。夜討ち、放火、城への潜入や乗っ取り、諜報、調略(敵方への働きかけ)など、戦国の忍びの実像を探る近年の研究は、こうした夜働きの実務を担う者たちの姿を、具体的に描き出しています(平山 2020、山田 2016)。
一見、身体の仕事です。塀を越えるのも夜道を駆けるのも、たしかに身体です。けれども、その実行を支えるものを数え上げていくと、様子が変わってきます。土地勘と人脈、方言と作法、火薬の調合、見たものを覚えて正確に持ち帰る技術、すなわち経験がものをいう項目が並びます。忍術書には「七方出」という変装の型が伝わっています。虚無僧、出家、山伏、商人、放下師、猿楽、常の形の七つです(中島 2017)。商人に化けて城下を歩くには、相場と口上と道中の作法を知らなければ、一言で露見します。変装とは衣装の問題ではなく、知識の問題なのです。
忍びの任務でいちばん重要なのは、敵方の様子を主君へ伝えること、戦闘を極力避け、生き延びて戻ることだったとされます(山田 2016)。私は、忍びの職能は身体技能と同じかそれ以上に、知識労働の性格が強いと考えています。
もう一つ、書物の側からも見ておきます。延宝4年(1676)にまとめられた『万川集海』は、伊賀・甲賀の術を集大成した忍術書です。あらゆる川が海へ集まるように諸流の術を集めた、という書名で、その紙幅の多くを、心の持ちよう、人の使いよう、謀り事が占めています。道具の巻もありますが、主役ではありません(中島 2015)。ただし、これは泰平の世の編纂物です。戦の絶えた時代に、失われていく技を書き残そうとした書物ですから、戦国の実態をどこまで映しているかは、割り引いて読む必要があります。
4.2 一つの記録:島原の乱の甲賀十人
では、実態にもう少し近づける記録はないのでしょうか。年齢のわかるものが、一つあります。
寛永14〜15年(1637〜38)の島原の乱(島原・天草一揆)。九州でキリシタンと農民たちが蜂起し、幕府が大軍を送って鎮圧した大一揆です。元和偃武から二十年余り、泰平が固まったあとの大きな戦でした。このとき幕府方に、甲賀の忍び十人が、みずから願い出て加わっています(山田 2016、川上 2016)。
任務の中身が、具体的に残っています。寛永15年1月6日、松平信綱は甲賀者に、塀際までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の形を調べて絵図にして出すよう命じました。その夜のうちに五人が塀の下まで忍び寄り、城方が松明を投げて用心するので味方の死骸に紛れて隠れ、城中が静まった時分に測るものを測って、忍び込んだ証拠に出城の角へ堅木を差し込んで帰ってきます。後日には城内へ入り、海側の塀際に置かれていた兵糧を十三俵盗み出し、城中で毎夜何かを唱えているのを、矢狭間ごしに聞き取りもしました(山田 2016)。
失敗も記録されています。二十七日の夜に五名で忍び込んだところ、望月与右衛門が落とし穴に落ちて騒がれます。芥川七郎兵衛がなんとか引き上げて逃げ、塀に飛び乗ったところで二人とも石を打ちつけられ、半死半生になったのを、残る三人が肩に担いで戻ってきました(山田 2016)。
そして、年齢です。二十代の者もいたものの、半数は五十代から六十代だったと、甲賀の記録として紹介されています(川上 2016)。半分以上が、当時の言葉でいう初老をとうに越えています。それでいて、落とし穴に落ちる或いは引き上げて塀に飛び乗るという身体の仕事は若い側が担っています。
ここからは私の解釈です。この記録は「高齢の忍者がいた」という以上のことを示しているのではないでしょうか。判断と経験は年長に、身体は若年に……職能の重心が歳とともに身体から知へ移っていく構造が、部隊の形そのものに現れていると解釈できます。忍びの適齢を身体の頂点ではなく、知識と経験の頂点——四十代前後——に置く読みを、この記録は裏づけてくれると考えました。
ただし、史料には注意が要ります。出典は『鵜飼勝山実記』の系統と「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」(山中文書)で、どちらも由緒書、すなわち家の来歴と功績を書き上げ、多くは仕官や恩賞を求めて差し出す文書です。つまり自己申告です。手柄は盛られやすい。ではどこを割り引き、どこを信じるか。功績の華々しさは疑ってかかるとして、部隊の年齢構成のような地味な情報は、盛る動機の乏しい種類の情報です。それでも数字は数字とする、そういう距離感で使うことにしました。
4.3 小結
もちろん、一つの記録から言えることは限られます。それでも、職能の中身(4.1)と部隊の編成(4.2)は、同じ方向を指しています。忍びは身体で老いる前に、知で熟す。当時の言葉が「初老」と呼んだ歳は、この職能ではむしろ頂点にあたる、と解釈します。
5. 時代の側: 群雄割拠から統制へ
三段の最後です。忍びが知で熟していくそのあいだ、時代の側では何が起きていたのでしょうか。年表を抜粋します。
- 1543 鉄砲伝来
- 1575 長篠の戦い(鉄砲の大量運用)
- 1582 太閤検地の開始(以後、順次〜98)
- 1588 刀狩令
- 1592〜93 文禄の役
- 1597〜98 慶長の役
- 1600 関ヶ原の戦い
- 1614〜15 大坂の陣
- 1615 一国一城令・武家諸法度(元和偃武といい天下の戦がここで止んだとされる)
事件を順に追っていくと、武器の話が統制の法に変わり、戦は大陸へ出て、国内へ戻り、最後に制度が戦そのものを閉じている、という構造が立ち現れます。この流れを支えた仕組みを、二つピックアップします。
一つは石高制です。太閤検地では、役人が実際に竿を入れて田畑を測り、村ごとに検地帳という帳面へ、土地の等級と石高と耕す者の名前を書きつけていきました。石高とは、土地の生産力を米の量で表した数字です。この数字を基準に、年貢と、軍役(主君に対する軍事動員の義務)が課されます。つまり石高がわかれば、その土地から何人の兵が出せるかを計算できます。石高で測られた動員力が、大名の配置換えと対外出兵を可能にしました(堀 2010)。
刀狩は、その対になる政策です。百姓身分から刀や鉄砲を取り上げ、戦う者と耕す者を身分として分けていく、のちに兵農分離と呼ばれる流れの目に見える一歩でした。
もう一つは「惣無事」です。天正13〜15年頃、豊臣政権は大名どうしの私的な戦争を禁じていきます。これを政権による平和の強制として捉える見方があります。ただし近年は、まとまった「惣無事令」という法令があったのか、それとも個別の停戦命令の集まりだったのか、議論があります(堀 2010)。
ここからは私の解釈です。私は太閤検地と刀狩を、国内統治の仕上げとしてだけでなく、対外出兵への足がかりであると考えました。検地は動員力の測定であり、刀狩は後方の武装解除ということになります。石高で兵の数が計算できるようになり、国内の火種を減らしてから、大軍を外へ出す。政策の並び順がからそのように解釈しました。もっとも、意図の証明ではなく結果からの読みも混ざりますから、これは私の一解釈として置いておきます。
そのうえで、一つ確かめておきたいことがあります。戦国の終わりは、ふつう大坂の陣と元和偃武(1615年)に置かれます。けれども「戦争を前提とする職能」にとっての終わりは、それより早く、統制の進行とともに段階的に来ます。忍びを雇っていたのは、戦を続ける大名たちです。忍びは傭兵、つまり戦のたびに雇われる存在であり、その市場は、大名たちが恒常的に私戦を続けることの上に成立している。私戦が禁じられ、戦が政権の事業へ一元化されていくにつれて、雇い主の側の需要が細っていく。需要は1615年に突然消えたわけではなく統制の一段ごとに、細っていったのではないかと考えられます。
私戦の禁止と戦争の一元化は、平和の宣言よりも先に、傭兵の市場を終焉に向かわせたと解釈することができます。
6. 交点——同時性
3、4、5章で述べたことの総括です。
銃のある世界を当たり前として育った世代が、職能の適齢である四十代に達するのは、1590年代から1600年代。まさにその十数年に、職能の前提である恒常的な私戦が、制度の側から解体されていきます。
つまりこの世代は、最も多くを知り、最も遠くまで見通せる歳に達したちょうどその時に、知識の買い手を失うことになります。職能の全盛と、職能の前提の消滅とが、同じ十数年に重なることが明らかになりました。
この同時性は、個人の不運ではなく構造です。そしてこの構造は、若い忍びでは書けません。若ければ、アンラーニングできたかもしれない。しかし、そうするには遅すぎる年齢・全盛の歳においてのみ、積み上げたものそれ自体が悲しくも宙に浮くのではないでしょうか。
本作が壮年を選ぶ理由は、ここにあります。
遅日は、春の季語です。日は一年でいちばん長くなりながら、それでも暮れていきます。
余談
第6章で「構造」と呼んだものを、端的に言うと「歴史のうねり」になります。歴史のうねりに翻弄される男は、悲しくて、セクシーじゃないですか! 積み上げてきたものの価値が、本人の落ち度ではないところで動いてしまう、その渦中にいる男の顔を、私は見たい!!私の性癖です。見たいよ〜ん!! 侯孝賢の悲情城市とかエドワード・ヤンの牯嶺街少年殺人事件とかが大大大好きなのですが、そんな感じで描き手である私がウワーーーとなりながらプロットを練りました。
もう一つ。私の思うBLとしての旨みの話になるんですが、歴史のうねりに生き方を迫られるというのは、これまでどう生きてきたかを問い直させられる、ということでもあります。そのときに、これまでの生き方の核に相手がいたことの重みがあるという……私が壮年に感じている萌えの芯は、たぶんここです。若ければ、恋はこれからの話でいられます。壮年の恋には「これまで」の厚みがあって、生きてきた時間がそのまま、ふたりの話の重さになる。宙に浮いてしまった「積み上げたもの」の芯に、相手がいる。こんな悲しいことがあるんでしょうか!!!壮年BL もっと読みたい。
それから、いろいろ調べて思ったのが、記録に残ったのは、名前と年齢の並びと任務の首尾だけです。けれどもその一人ひとりに、ご飯を食べて眠る日々があったはずで、そこから先を考えるのは学術研究でも考察でもなく、フィクションの仕事だと私は思っています。私が二次創作を作っている理由の、たぶん半分はここにあります。
そしてこれは、戦国だけの話ではない気がしています。職能の前提が、本人の与り知らないところで動く、これは時代固有の悲劇に見えて、いつの時代にもある話です。私はその普遍性に萌えています。
読む人を選ぶ話なのは重々承知しているのですが、少しでも萌えが共有できていれば幸いです。
別稿では文次郎と仙蔵の卒業後の設定についてもお話しできればとおもいます。
参考文献
- 堀新(2010)『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』吉川弘文館
- 三鬼清一郎(2012)『鉄砲とその時代』吉川弘文館
- 中島篤己(2015)『完本万川集海』国書刊行会
- 山田雄司(2016)『忍者の歴史』角川選書
- 川上仁一(2016)『忍者の掟』角川新書
- 中島篤己(2017)『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』角川ソフィア文庫
- 山田雄司(2019)『忍者の精神』角川選書
- 平山優(2020)『戦国の忍び』角川新書
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